異なるが平等-多文化共生主義と異分野コミュニケーション

異なるが平等、そんな異文化共生主義を取り上げながら異分野コミュニケーションについて考える。しかしそもそも、ある分野というのは一枚岩なのだろうか? 分野に内包する対立と相互批判の重要性は否定出来ないものではないだろうか。

本連載について

「文化として見る異分野コミュニケーション」と題した本連載では、筆者がこれまで関わってきた多くの異なる専門分野の友人達との交流から得られた幾つかの実感を、先行研究が多く体系化が進んでいる異文化コミュニケーションのキーワードを援用しながら共有していく。

なぜ分野横断が求められるのか、そもそもなぜ分野は分かれていったのか、現実社会と学問の関係とはどんなものなのか、こういった論点にも目を配りつつ進めていきたい。

連載:文化として見る異分野コミュニケーション
vol.1  分野横断とは、文化横断的な試みである:異分野コミュニケーションを探る
vol.2  文化としての学問分野:文化相対主義と分野相対主義
vol.3  異なるが平等-多文化共生主義と異分野コミュニケーション
vol.4  異なる分野の交流は第三の分野を生み出すのだろうか?
vol.5  過去志向と未来志向、学問という文化が持つ「時間観」
vol.6  異分野コミュニケーションの場、学問分類の歴史 -Ekkyo Session vol.9開催レポート-

 

文化としての学問分野

生活のあらゆる場面で前提となっている、最早内在化してしまっていてそこに規範があることすら忘れてしまうもの。それが文化である。子どもは朝起きて「おはよう」と挨拶することを教えられる内にそれを自明のものと考え、いずれその意味や背景を考えずに常識化する。学問分野にもそのような分野ごとの文化があるのではないか。だとすると、異分野交流とはまさしく異文化交流である。

実際、学問分野という言葉はdisciplineが原語である。規範や規律といった意味を持つこの言葉は、分野というのが何らかの規律に従っていることを指している。論文誌におけるピアレビュー、そのアクセプトとリジェクトの繰り返しによって作られる規範-適切な方法論はなにか、適切な論理構造とは何か、適切な研究対象は何か-がその分野を形成していると考えられる。

研究室に所属し学問的生産物としての論文を提出し、受理されるように努力することはまさしくその分野が持つ様々なマナーやルールを習得する過程であるわけだ。これによって作られる共同体をジャーナル共同体とも呼ぶ。

共同体同士の関係と摩擦

様々な共同体(そして文化)には常に対立が存在している。対立がなければそこに共同体の別は存在しない。何らか異なるところがあるからこそ別の共同体になっているのだ。普段から関わり合いがなければ特に摩擦も起きないが、グローバリゼーションの中でますます異文化コミュニケーションの場面が増えたのと同様、分野間のコミュニケーションも現代の学知の置かれた状況の中で必然的に発生している。分野越境、共創、融合領域など様々な言葉で分野間の交流が望まれている中で、これまで関わらなくて済んだ異なる共同体との摩擦が生じるのは必然である。

このような交流について一日の長がある(というかその分野に異分野交流も内包している)のが異文化コミュニケーションである。異文化コミュニケーションでは、このような対立する文化関係をどう捉えるかについてどのような視点があるのだろうか。ややもすればナショナリズム-ここでは自分野優越主義とでも言おうか-に陥りがちな分野間の対立には、3つの視点があると言う。

1.文化に上下や優劣はない-文化相対論
2.異なるが平等、多文化共存主義-共文化
3.あなたと私が共同で創る新しい文化-第三の文化

である。本記事では2の始点である共文化について触れていきたい。

異なるが平等-以前の基本的状況

異なるが平等、というのがある種の理想論的響きを持っていることは否定出来ない。なぜならばこれまでの長い人類史の中でそのような時代はほとんど無かったからである。基本的にあらゆる文化-そしてそれと共に作られる集団-の間には歴然とした上下関係が存在していた。中国の冊封体制などはその最たるものだ。下位の文化は上位の文化に支配・従属するものだし、場合によっては「吸収合併」されることも当然だとされた。

 

異文化コミュニケーションでは、このような状況には2種類の視点が一般に取られるようだ。1つは地理的なもの、もう1つは社会的なものである。前者に関しては日本でいう大都市のような「中心」と「周辺」が存在しており、当然ながら前者の方が優れていて、周辺はそれを後から模倣するのが良いという立場を取る。

社会的なものとは、例えば年齢や性別、社会的階層、民族などから見る立場だ。それぞれの性質によって「良し」とされるものは異なるはずだが、それを遅れているといったり間違っているから変えるべきだと安易に断じ、なんらかの文化的優越性というのが存在していると考えるのである。具体的には若者が「古臭いやり方は間違っていて、私達が正しい」と考える事やその逆も例証だろう。自国内にも多様な文化があることがわかる。

学問分野においても同様の構造で物事を捉えられるかもしれない。最もわかりやすいのは地域による「中心性」の存在だろうか。科学社会学の研究では研究中心地と言われる概念が存在している。特定の時代において知識生産の拠点となるような国があったというのだ。18世紀のイギリス、19世紀のドイツ、そして20世紀のアメリカである。それ以外の地域はその国の言語を使えないといけないし、世界的に認められるにはその国の学会で認められないといけない。

社会的な視点で考えるのならば、あらゆる学問分野には常に「中心となる問」と「周辺としての問」が存在する(もちろんダイナミクスはある)。時代によってそれは変動するが、場合によっては周辺としての扱いに耐えられなくなった集団-その元集団では十分な評価が得られない集団-が学会を立ち上げて自分たちが中心になろうと動くこともある。様々な学問分野もまた異文化に似た構造をしているようである。

共文化という考え方と学問分野

ここで、共文化という考え方を取り上げてみる。共文化とは、文化的総意を相互に認め合いながら平等意識で共存するという異文化観を持っている。例えば津軽地方が持つ文化を安易に東北地方の文化の中に取り込まずにその独自性に常に目を配ること、サラリーマン文化や自営業文化-その中には更に細かい文化があるだろう-を平等に取り扱おうとする姿勢を持つ。

これを学問分野に当てはめれば「みんな違ってみんな良い」という立場になるように思う。それぞれの学問分野にはそれぞれの歴史や独自性があって、統合したり価値が低いと断ずることは出来ず、それぞれを平等に取り扱うべきだと考える。しかし、これはややもすればその分野内部での批判すら十分に行えなくなる可能性を持った考え方である。あらゆる文化には常にそのサブ文化が内包されており、もしそれらをすべて平等に認めることがあれば、そのメイン文化自体が持つ特徴を維持できなくなる可能性がある。

これは欧州が1つの大きな文化を元に集まっていると言いながらも、スペイン内部の(自分たちは独自の文化を持っていると主張する)カタルーニャ地方の独立運動を認めないシーンにもよく似た風景である。様々なサブ文化を平等に取り扱うことは現実的には極めて難しいとする立場が取られることは決して少なくない。

学問分野の横断や越境、融合ということを考えるときにもこのような文化の違いを尊重することはとても大切でありながら、共通するところ、橋渡しが出来るところを見つけて協力し合うという点においては独自性ばかりに目を向けると却って困難になることが想定される。違いに目を向けるだけでなく、重なるところを見出す必要がある。独自の文化を持つという集団が本当にこれまでのあらゆる他の文化から隔絶して存在することは有り得ない。

違いがあるのはもちろんだがその独自性をあらゆることに優先して主張することや、常にサブ文化を含むあらゆる文化を平等に取り扱うことは極めて難しく現実的ではないかもしれない(そもそも平等に取り扱うとはどのようなことか、を考える必要があるに違いない)。

次回

特定の分野の優越性を認めない分野相対主義、それぞれの分野は異なるが平等だとする共文化主義を取り上げたが、次回は分野交流によって「第三の文化」が生まれるとする立場を取り上げたい。

連載:文化として見る異分野コミュニケーション
vol.1  分野横断とは、文化横断的な試みである:異分野コミュニケーションを探る
vol.2  文化としての学問分野:文化相対主義と分野相対主義
vol.3  異なるが平等-多文化共生主義と異分野コミュニケーション
vol.4  異なる分野の交流は第三の分野を生み出すのだろうか?
vol.5  過去志向と未来志向、学問という文化が持つ「時間観」
vol.6  異分野コミュニケーションの場、学問分類の歴史 -Ekkyo Session vol.9開催レポート-

 

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