教養とは何か:日本のエリート主義と接続した「教養」

ドイツ観念論と接続する形で発展した教養理念は、その影響を受けた日本にも流れ込んできた。教養とは「どのように生きるべきか」を問うことから「古典を知っていること」に成り下がったのだ。

本連載について

知の見取り図というwebサービスが目指すところは知的好奇心に優しい社会を作ることです。人生100年時代と言われる中で、改めて「学び」が注目されています。人は学び続けることで豊かな生活が暮らせる、そんなふんわりしたイメージの中に教養という言葉も位置づけられているように思います。

この連載「知られざる教養の実態」では、様々な書籍の中で語られる教養について掘り下げながら、その言葉の広がりや多様性、そして最終的には私達知の見取り図が考える教養や教養人といった言葉を定義していきたいと考えています。今回取り上げるのは阿部謹也の「教養とは何か」の一節です。

連載「知られざる教養の実態」
vol.1教養とは何か:「いかに生きるか」を自ら問うこと
vol.2教養とは何か:「俗世を超越する」教養はいつから始まったのか
vol.3教養とは何か:日本のエリート主義と接続した「教養」
vol.4文字に依存しない教養:踊る靴職人、儀礼文化の王族たち
vol.5竹内洋『教養主義の没落』の序章から見える、教養と総合雑誌の歴史的関係

 

教養概念の変容

連載第2の記事において説明したように、教養概念は「どのように生きるべきか」という問いから始まったものの、徐々にその姿を変えていった。当時、そのような問いに応えるためにはギリシャやローマの古典に立ち返る必要があり、それには古典語を十分に使いこなせる知識(とそれを獲得するためのお金や時間、社会的地位)が必要だった。

そのため、古典を学ぶこと、それに習熟していることが教養であるかのように捉え方が変わってきた。そしてドイツでは普遍的なものが具体的なものよりも優れているという考え方、ドイツ観念論的立場から、この社会の実務や具体的な政情といったものとは無縁の考え方こそが、社会超越的であって、魂を理性を磨くための方法とした。

そのような現実離れしたものこそ当時の哲学であり、それこそが学問の中心であると主張した。世俗的なものは低俗なものであるとさえ主張した、そのような考え方が、ドイツを範にして大学を作っていった日本に影響したことは言うまでもない。

教養概念の日本での受容

そのような背景の中で、当時ドイツ観念論の様々な書籍を熱心に翻訳していた岩波文庫が当時の知識人の中ではある種の必読書として認識されるようになっていた。一高と言われる、日本の最エリート層が行く場所も当然日本をこれから背負っていく若者として(多少なり知的背伸びの側面がありながらも)これらを読んでいった。

デカンショという言葉を聞いたことがあるだろうか。これはデカルト、カント、ショーペンハウアーのことであって、優れたエリートの若者であれば当然これらの内容をよく知り、また議論することが求められた。おわかりかと思うが、まさにこれこそが日本の「教養」という言葉がイメージするような衒学的で「嫌味」とすら取られる雰囲気なのだ。

ドイツも同様のことであるが、ここで教養が「どのように生きるべきか」という問いからどんどん離れていることは特筆すべきところだろう。本来であれば、このような書籍に触れながら自ら高次の思考を通して自身を高めていくために使われていったものは、気づけば正解や不正解のような「生き方」とは無関係の評価軸によって取り扱われるようになってしまった。

更に、この超然的な態度こそが良いとするのは、そのままイコール社会の具体的な生活を馬鹿にする態度にも繋がった。実務や商売といったものは下劣なものであって、それは(自分たちのような)社会の上位の人間には無縁であるとする態度まで育んだことは否定し得ない。

これは国家にとっては良いことであったと阿部謹也は述べている。すなわち、国家が集団として機能するにあたって、もしも本当に教養概念が「どのように生きるべきか」を若者に考える切っ掛けを与えていたとするならば、それは個人の自由意志を発展させて国の一丸となった動きには邪魔だっただろうから、というのが主旨である。

教養とはなにか

かくして、連載3本目にして大きな概略を示すことは出来たように思う。教養とは「どのように生きるべきか」という問いに向き合うために始まったが、後に難解で抽象度の高い哲学をして自身を高めることに収斂し、気づけばその超然とした態度だけが残って最初の問いは忘れ去られてしまったのだった。

日本における教養という言葉には多様なイメージがあると思うが、その1つは間違いなくこのような高慢ちきな知識人による教養のイメージだろう。しかし、多様な教養概念の中には次の連載で紹介するようなものもあるだろう。

それは社会で生きて行く上での身振り手振りを含んだマナーだ。社交ダンスはまさにそれであり、テーブルマナーも典型的な教養のイメージの1つである。本の中にだけ閉じ込められた教養が重視される文化もあるが、それは1つの側面にすぎないのである。次回もお楽しみに。

連載「知られざる教養の実態」
vol.1教養とは何か:「いかに生きるか」を自ら問うこと
vol.2教養とは何か:「俗世を超越する」教養はいつから始まったのか
vol.3教養とは何か:日本のエリート主義と接続した「教養」
vol.4文字に依存しない教養:踊る靴職人、儀礼文化の王族たち
vol.5竹内洋『教養主義の没落』の序章から見える、教養と総合雑誌の歴史的関係

 

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